アジアな空間

日常の出来事や、アジアに関することを書き綴ります。

アジアな空間 その159 嫌ならすぐに絶縁か? の巻

 民族性を語る時、自分の経験や体験から得た結果や結論を一般化して論じることはできないことをふまえた上で、管理人は今回のインドネシア滞在を振り返ってみました。


 滞在中に類似の2つのケースを体験しました。1つはハラスメントに関すること、もう1つは相手の考察の浅さを指摘した場合のリアクション。どちらも、相手が何の疑問も問題意識も持っていないことに対し、管理人が問題点を指摘した後の反応です。


 前者のケースは、基本的にその人はハラスメントに関する知識や認識がなく、その人の言動、行為がセクハラにあたると指摘したことに始まりました。食事中、休憩中など、四方山話の行き着く先はすべて性的話題です。こういう話題は聞いていてとても不快で、場の雰囲気が嫌なものになると感じる管理人。しかし、それを指摘されたその人は、何が問題なのかわからない様子。管理人が怒るとか叱るということではなく、日本も欧米に遅れたにせよ、近年、日本人は3つのハラスメント、すなわち、セクハラ、アカハラパワハラに関してかなり敏感になっている、特にセクハラについては、相手がどういうつもりで言ったか、やったかというよりも、言われた方、やられた方が不快と感じることで問題化するたぐいのハラスメントということで、職場でもずいぶん気にする傾向が強くなっている。外国人を相手にする仕事であればあるからこそ、こうした世界の動きや標準というものにも目を向け、学ぶべきは学び、あらためるべきはあらためる姿勢は必要だと思う、という程度の指摘。


 後者のケースは、学生向けのメッセージの中で、「同じ種を蒔いても違う結果が出てくる。同じ授業を受けても結果はばらばらである。問題はどこにあるのでしょうか。種・授業にあるのではなく、聴く姿勢にあるのです」
というくだりがありました。管理人は思いました。「本当に種や授業には問題がないのか?自然界には、種が完全であるという事実は実在しにくく、種も不完全であり、十分な実りをもたらさないケースはたくさんある。授業はどうか。教師が常に完璧で完全な状態で授業に臨むことは理想的であり、そうあってほしいと誰もが願う。しかし、1人の教師が1人では対応しきれないほどの生徒数を抱え、また生徒が抱える個々の問題も多種多様である現実をみれば、必ずしも問題は種・授業にあるのではなく、聴く姿勢にあるのです、と断言できないのではないか?」という指摘をした時の反応です。


 両者が共通してとったリアクションは、以後、突然管理人と距離をとり、意見を求めなくなったことです。


 以前、同じような経験をした日本人の知人がいますが、管理人が今回経験したことも、その知人と同じように、日本人同士では特に問題にならないような範疇のやり取りだと思うのですが、この2人のインドネシア人は、自分を否定されたと思ったのか、自分が絶対正しいと信じてて自信があるのか、とにかく管理人も知人も、インドネシア人の民族性を語る時、人の他者から学ぶ姿勢に関して日本人とインドネシア人では対極に位置する性格を持っていると言っても、大きく外れてはいないのではないか?という結論に達したのです。

 このように、何かを指摘された場合、それが気に入らないといって毎回相手と関わりを切り捨てていれば、その人にとっての成長はないと思うのですが、もしかしてインドネシアの人は、おのおのの環境下において自分は絶対の存在で、自分のやり方を否定されることはゆるしがたいことなのかも?と思ってみたり。


 とは言ってみても、これまで管理人が関わったインドネシア人の中には、先の2つのケースとは真逆な人もいました。指摘されることを素直に受け入れ、反芻し、次のステップにつなぐのです。この人とは自由に意見交換ができるし、管理人もその人から多くを学びました。安心して知識や意見を共有できることに、管理人は大きな魅力を感じています。


 性格があう、あわないという次元の話ではなく、やはり素直に相手の話に耳を傾けるという姿勢は、持っていて損な性格ではないと思うのも、日本人特有の民族性なのかな?


 異文化理解は難しいものですね。