アジアな空間

日常の出来事や、アジアに関することを書き綴ります。

アジアな空間 その816 いつまで「教えてもらう」ことを期待するのか? の巻

 昨日、今日と日経新聞朝刊の1面に、大学に関する記事が載っています。昨日の朝刊では、学生を在学中に短期留学や研修の名目で海外の大学での体験をさせる試みを実施している大学の事例を紹介していましたし、今朝の朝刊では、「教える技術を身につけた」教員の養成についての記事でした。

 昨日の記事は、最近多くの大学で取り組みをしている事例であって、目新しさはあまり感じませんでしたが、反面、日本のこと、自分のことも理解していない学生が外国で何を学ぶのか?と疑問を感じました。やらないよりはやった方がいい海外研修というのでは、あまり意味がないようにも思います。

 そして、今朝の記事には仰天です。大学という場所は、教員にとっては「教える場」でもあるけれど、「研究機関」としての意義と位置づけが従来の大学だっと思います。ところが、今は手取り足取り「わかるように教える」ことが大きく教員に期待されるというのであれば、研究より教えることに重点が置かれていることになります。それはそれでいいのかもしれませんが、本来わかる授業とか、教えてもらうための授業というのは、大学に求めるべきものなのでしょうか?

 そういうことは、小学校から高校までの段階で十分になされるべきものであって、そこで学んだことを基礎に、大学では、自分から学びを求め、探求するのが本来の姿ではないのか?と思います。

 講義で新しい知識を聞き、それを学生自身がさらに調べて深めるというのができないから、わかるように授業をしなければならない、そのために大学教員の授業研究や教え方の指導をする研修機会を用意する?なんだかへんです。当然、特殊事情を抱えた学生が在籍するケースについては、可能な限り対応する必要はあると思います。

 そもそも、みんなが大学に入る、本来その能力がない人も大学に入る、そんな環境が当たり前になっているから、大学では「わかる授業」を要求されるのだと思います。

 なぜ、みんながみんな大学へ進学しなければならないのか?それが一番の問題だと思います。日本の大卒の質はもはや対諸外国と比して話にならないものになりつつあるように思います。

 入試方法をみてもそうです。
 学生確保のため、あの手この手で入試方法を提案する大学側と、とにかく大卒になりたいがために、あの手この手にのる受験生。
 
 持ちつ持たれつの関係が成立しているように見えますが、本当にこれでいいのか?と思います。

 とにかく大学を卒業すれば、と言っても、その先の人生に意味をもたらす大学生活なのか?と考えると、はてなマークがたくさんでてきます。