東北大震災で被災した身内が生活する避難所に救援物資を運ぶという友達たちから、一緒に東北へ行かないかと言われました。管理人は身内の安否確認を勧められ、行ってきました。
高速道路は渋滞もなく、スイスイ。しかし、宮城県周辺の東北道は、道路にうねりができている箇所が目立ち、100キロほどのスピードでは、車が軽くジャンプ!ちょっと怖かった。。。
すれ違う車輌は、ほとんどが救援救助活動に向かうもの。災害救助、災害派遣、救援物資搬送、というステッカーや幕をくくりつけた車でした。そして、人生で初めて、あれだけ多くの自衛隊の車輌をみました。大阪、群馬、新潟県警のパトカーが10台程度の隊列で移動。治安や交通整理の支援でしょうか。大学のバスでボランティアに向かう学生達も見かけました。
日本中から、様々な人や物が被災地に向けて動いている様子が間近で感じられました。
管理人は、岩手県盛岡市とその周辺に行きました。被害はあまり目で見えるようなものはなく、人々もいたって平静にいつもの生活をしているように見えました。都市の機能も失われることなく、安心しました。
震災後、電話で何度も身内の様子や生活環境を確認していますが、実際に会ってみると、電話では話されなかったいろいろな不安や不自由さを話してくれました。でも、
「ここは大丈夫。三陸は大変だ。あの地域の人を思えば、このくらいは。」
と、どの人も必ずいうのです。
痛みを分かちあう言葉に、心が痛かった。。。
女川など三陸方面に行った友達は、3週間前とはかなり様子が違っていたと言っていました。道路の片付けもかなり進み、移動に時間がかからなくなった印象を持ったそうです。しかし、時間の経過とともに、臭いが漂う様になった気がする、また避難所の身内も、全体に疲労感を見せていた、と言っていました。
被災直後は、気が張っていたり、若干興奮した状態だったのかもしれませんが、時間がたち、避難所生活が避難者のとりあえず当座の生活の場になり、生活のパターンができあがると、ふと疲れがでてきたのでは?と思います。
時間がかかるのは百も承知ですが、それでも少しでも早く復興完了して欲しいと思います。
そうそう、盛岡駅の駅ビルでは、ボランティア活動を終え帰る人たちを見かけました。自分の背丈ほどもありそうな大きなリュックを背負っていました。自己完結型の支援活動でしょう。帰りに岩手のお土産を買い求める姿を見て、ちょっとジ〜ンときました。
管理人は、この先、少しずつ細く長く支援する方法を考えたいと思います。特に、外国人の被災者のための外国語による傾聴ボランティア、そして被災地の児童、生徒のための学習支援など、得意な分野で力になれればと思っています。
岩手山。大震災の後、東京での余震や、買い占め、物不足、予定が立てにくい流動的、変則的な生活や仕事の連続に疲れていました。でも「ふるさとの山」は、ありのままを受け止めてくれました。「ふるさとの山に向かひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」という石川啄木の処女歌集「一握の砂」の中の「煙」二の章末に収められている歌が、管理人の心にも響いてきました。