アジアな空間

日常の出来事や、アジアに関することを書き綴ります。

アジアな空間 その881 映画「アクト・オブ・キリング」 の巻

 先月、ひょんなことから「アクト・オブ・キリング」を知り、なんとなく気になっていました。昨日、鑑賞しました。

 話は1960年代にインドネシアで起こった反共産の動きとそれに伴う大量虐殺事件に関することで、インドネシア研究者の中では、この事件はかなり大きな位置づけだと思います。

 この映画は、監督が(アメリカ人)この事件の加害者にその当時のことを演じさせるというもので、管理人は予告編をみて、史実に基づき時代検証をもっと細やかにした上で、事の顛末をわかりやすく描く、出演者は当時の加害者と解釈していました。管理人はこの事件煮関することを過去に何度か原語で読んだり、また日本語での書物も読んだことがありますし、また北スマトラに当時小学生で住んでいた友人からの話を聞いたこともあったため、かなり興味があるテーマでした。

 観賞後の感想。観にいく価値があったかな?です。様々な賞を受賞した作品のようですが、なぜこの程度の作りや内容で?と思いました。

 加害者たちが、
「あの時この場所で何人もの人に手をかけた。こうやってやると、一番簡単だった。」
などと証言をしながら、やり方を再現したり。最初はみんな意気揚々とやっていましたが、途中から、
「誰が残酷か、共産主義か?いや、共産主義より自分たちの方がよほど残酷ではないか?」
と思い始める場面もありましたが、それでも加害者たちは平気で当時のことを、ある意味自分たちを正当化するようなスタンスで話が展開していったような気がします。

 虐殺とは直接関係はないと思いますが、インドネシアではプレマンというものの存在があります。やっていることはヤクザのようなものですが、加害者たちは自分たちをプレマンと位置づけ、プレマンゆえにこういうことをした、ああいうことをしたとも言っていましたが、そもそも「プレマン」事態の定義があまりにも曖昧です。
 プレマンゆえに、市場で商いをする華人の商店を巡回しては、店の安全をまもるから金をだせとせびるシーン。華人店主は不承不承いくばくかのお金を渡すのですが、額が少ないといちゃもんをつけ要求し続け、店主の表情が思いっきり不快感満載のシーンがありましたが、もし出さなければどうなるか?被害甚大と思うから仕方なしにお金を渡す、そんなシーンは、ある意味今も日常の光景なんだろうなと思いました。

 この映画では、加害者だけが当時を振り返り演じていましたし、管理人の目には、どう割り引いても彼らが自分たちを正当化する考え方は今も当時もそう大きく変わりないと感じました。被害者が演じた映画ならどうだったのか?そんなことを考えながら観ていました。

 映画はインドネシア語でしたが、字幕はちゃんと日本語でついていました。管理人は字幕を読んでいないので、原語でありのままを聞いて感じ取った訳ですが、やっぱりどう考えても、
「この映画は質が低い」
と思いました。

 別件で、この映画の中に出てくるプレマン、反共産主義、パンチャシラ青年団ですが、それぞれが相互にどういう利害関係があるのか?結局よくわかりませんでした。
 政治の思想は、それぞれ違ってよいのですが、プレマンがなぜ反共産主義の虐殺に関わるのか?(お金や権力でプレマンを動かすことはできるでしょうけど)、また、あの映画に出てくるパンチャシラ青年団をみると、なんだか怖い暴力集団のような印象も与える気がしましたが、実際はそういう団体ではないように思います(注:管理人の知識不足で、勘違いかもしれませんが)。
 
 なにはともあれ、1960年代に赤狩りと称して無実の市民たちが虐殺されたこの事件は、半世紀近くたった今のインドネシアなら、かなり冷静にその事実を見つめることができそうな国になっていると思いました。