アジアな空間

日常の出来事や、アジアに関することを書き綴ります。

アジアな空間 その875 枝の主日 の巻

 うっかりしていて、今朝はゆっくり起床。テレビをつけて、今日は枝の主日であることを思い出しました。ところが、数日前から足が痛くて、遠くへ電車に乗っていくのも大変だったので、近所の教会へ行きました。だれも知り合いがない教会。完全にお客さん状態。

 祭壇を見て「え?」と思いました。誰も知っている人が居ないはずだったのですが、祭壇の前に立っていたのは、十数年前に知り合った神父様でした。

 式が終わって声をかけに行くと、神父様もびっくりされていました。
「今日は、まさか会えるとは思っていませんでした。たまたま手伝いにきてみたら、共同司式をした他の神父様たちも、神学生時代に知り合った方達でびっくりしました。いやぁ〜、これも何かの。。。。」
 「私も普段はここには来ないんですが、足が痛くて遠くへ行けないなということで、今日はここの教会でお枝をいただきにきました。再会は御復活を迎える前のお恵みでしょうか。。。」

 久しぶりに、和やかな時間でした。

 今日からの一週間は聖週間です。これから御復活にむけて日々、教会ではさまざまな典礼が行われます。昨年の御復活は、大阪にある教会で迎えました。知っている人が洗礼を受けるので、管理人に洗礼の親を頼んできたためです。彼女の洗礼式は特別なものでした。というのは、末期がんで、洗礼は彼女の最期に向かっての準備の一つでもあったからです。複雑な気持ちで彼女に寄り添って迎えた洗礼式と御復活のミサでした。その3ヶ月後、彼女は短い生涯をとじました。

 毎年、カトリック教会では枝の主日のミサで読まれる聖書の箇所が決まっています。イエスが十字架にかけられるシーンです。何度読んでも、何度聞いても、心が痛くなる場面を想像します。学問的には、なぜそういう場面が起こったのか説明されることはありますが、管理人はそこまでハイレベルなものではなく、もっと身近な人間、それも弱さに満ちた人間レベルで民衆の心の動きを考えるのですが、なかなかこれが答えだ!というものにたどりつきません。場面や言葉は違っていても、我々の身の回りには、常に十字架にかけられるイエスとそれを取り巻く民衆のような場面が沢山あるのではないかと思っています。

 さあ、この一週間、いろいろなことを考えながら過ごしたいと思います。